TB 200906〜
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TB 200811〜
はてなの仕様?なのかしらないけど、id トラックバックとやらが、最新ではあるがやたらと古いエントリにつくので、それ用エントリ。
それだけではなんなので、ちょっと小話。
ある PC の設定の説明を chat 越しに人にしてた時に、「今から送信するファイルを○○フォルダの下において」と説明してたのだが、どうもうまくいかないという。おかしいなー、このファイル置けば絶対いけるはずなのになぁ、と悩んでいたことがあった。
後に聞くと、「フォルダの下」ってのを、ディスプレイの画面位置で、下においてたらしい。その人曰く、俺のいう「フォルダの下」というのは、「フォルダの中」というそうだ。
俺も含めてだが、思い込みというのは恐ろしいものだ、と改めて感じた事件だった。
「○○は怖い」に対して、「○○は普通」という返答は論点ズレ、もしくは読取りすぎ
「斯くの如く、別件逮捕に使われる著作権法を非親告化すべきではない - novtan別館」をよんで
# 2008年01月25日 suVene 法律 「法はないけど、それは悪です」ってのが、社会通念としてあるということを前提に大手メディアに書かれるのは怖い。
はてなブックマーク - 斯くの如く、別件逮捕に使われる著作権法を非親告化すべきではない - novtan別館
とコメントを書いた。
すると以下のようなコメントをいただいた。
# 2008年01月25日 mohno 著作権, 非親告罪化, (略)/↑メディアがモラルを語るのは普通*1
はてなブックマーク - 斯くの如く、別件逮捕に使われる著作権法を非親告化すべきではない - novtan別館
「怖い」に対して、「それが普通」という指摘は、あまり意味をなさないと思うのだが。例えば、「ボクシングという競技は殴りあうのが怖い」という感想に対し、「ボクシングはそれが普通」や、「夜は暗いから怖い」に対し、「夜は暗いのが普通」のような感じで。それに、「普通」だから認める、認めないというのも、直接的に関係がない。「差別は世界中であるのが普通」だとしても、それを認めるか認めないかは別なように。
そもそも、「メディアがモラルを語るのが普通か普通でないか」という論点自体が、ずれているように感じる。何故なら、「それが普通だから怖い」のか、「普通じゃないから怖い」のかは、書かれていないからだ。
しかし、id:mohno さんは、後者と判断してそのように指摘されたのかなと思ったので、ブクマコメントを付け足した。
# 2008年01月25日 suVene 法律 (略)/id:mohno 普通だから、「怖くない」と?個人的には、逆に「普通だから」注意しないと怖い。*2
はてなブックマーク - 斯くの如く、別件逮捕に使われる著作権法を非親告化すべきではない - novtan別館
すると、以下のように返信があった。
# 2008年01月25日 mohno 著作権, 非親告罪化, (略)/(略)/「法はないけど、悪なので、法が必要」という議論を否定?>id:suVene
はてなブックマーク - 斯くの如く、別件逮捕に使われる著作権法を非親告化すべきではない - novtan別館
何故、議論を否定していると思ったのか不思議すぎる。「注意しないと」が、否定に見えるということなのだろうか。
かといって、ここで「何故私が、メディアが根拠なく(あるいは明示せず)、ある行為や言動について「それは社会的通念として“悪”であるという価値観が、さも常識のように一般化」されて語られることが怖いのか」を、いちいち説明するつもりはないので、再度簡単に返答をしておくことにする。
- 引用: ↑メディアがモラルを語るのは普通
- 返答: 理解してます。
- 引用: 「法はないけど、悪なので、法が必要」という議論を否定?
- 返答: 否定していません。
まぁ、id:mohno さんは、短いブクマコメントから、相手の背景や意図を深読みするタイプなのかどうかは知らないが、率直に質問されるのはありがたい。ただ、その質問が、こちらの意見の推測であり、かつ、まったく「No」である場合、「何故そんな推測になるのだろう」という疑問浮かんでくるなぁ。
公正さについて
「公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また」というエントリを読んだ。
これは以前に、「私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また」に対するコメントとして、
# 2007年11月19日 suVene 『公平に、公正にものを考えようとするとき、できることは、さまざまな異なった立場にたつ自分を想像してみることだ』 それもあるけど“何を基準として公平・公正” とするのかということを考える事も大事だと思う。
はてなブックマーク - 私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また
という事を書いたのだが、その部分から連想されて書いたのだという前提で書く。
公平・公正の判断の基準なんて、考えたこともなかったな。
公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また
なぜなら、公平・公正を一人の個人が判断できると思わないから。
一人の個人が基準を決める、あるいは判断することは不可能だと思っていたから。
まず、「絶対的な基準」という意味でなら「一人の個人が基準を決める、あるいは判断することは不可能」というのは、当然過ぎる話であるので同意できる。公平・公正さなんてのは常に背景によって相対的に決まるものだし、個人によると千差万別すぎる。
ただ、この部分は同意できない。
公平とか公正とかいうのは、多角形の重心みたいなものじゃないかと思っている。どの頂点にも、決してそれは存在しない。多数の頂点間のバランスをとるためには、それらの頂点ではない場所を支えるしかない。
公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また
ということは、どの頂点から見ても、そこは遠い。
この、「多角形の頂点」というのが、各個人や勢力が考える「公正さの基準」だという前提だとして、「公平とか公正とかいうのは、多角形の重心」というところが納得できない。何故なら、ある一つの「多角形の頂点」を「公平・公正」とする場合もあるからだ。たまに見かける、中道というのを「極論の中間」という意味で使っているのと同じような意味で納得できない。
何に対する「公平・公正さ」の話をしているのかによって、話は全然異なってくるのだが、例えば
- 100点満点中 80点 が合格点なので、それ未満は不合格とし、それ以上を合格とする
という基準(一つの頂点)があった場合に対して、
- いや、40点を基準としないと公正さに欠ける
という主張(一つの頂点)があった場合、間を取って「60点が公正である」とはいえない。80点が妥当かもしれないし、40点が妥当かもしれないし、60点が妥当かもしれない。いずれにせよ、『どの頂点にも、決してそれは存在しない』とは言えないのだ。
そして、俺が言いたいのは 40点か 80点かという話はともかく、「この人は60点で合格にしよう。この人は80点で合格にしよう。この人は…」などという事が無いようにという意味において、『“何を基準として公平・公正”とするのかということを考える事も大事』という事を述べている。
最後に
真の公平・公正は、どの頂点からも遠くて、誰もが必ず多かれ少なかれ不満をもつような場所にあるはずだから。
公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また
という部分も、上述の「間を取れば中道」にはならないという意味で納得しかねるのだが、それ以前に「真の〜〜」や、「本当の〜〜」というのは、結論の出るわけの無い問いなので、あまり意味を成さない。
公平・公正 というのは、ある前提において明確な基準の元に決断されて、人種や出身などにおいて差別なく適応されるルールのことだと考える。
そのルール自体の基準をどこに置くのかというのは、難しい問題なのだろうけど、その意味において『公平・公正の判断の基準なんて、考えたこともなかった』ということは無いだろうと思う。
Hatena World
そういえば、はてなワールドはどこへ行った。
罪悪感 - Res
前回の日記 のブクマコメントで
# 2007年09月18日 id:yumizou 「そして、いつしかそれに耐えられなくなったとき、その親しい人からも逃げざるをえないのだ。」つらいだろうというのはわかるんだけど,親しい人から逃げるという選択を果たしてするのかな。
という言葉を見かけたが、私は逆に「親しい人だからこそ」逃げたくなるのだろうと思う。
想像してみて欲しい。
例えば、現在自分のからだが健康であるとして、将来自分のからだが不自由になり、寝たきりになるとする。しかし、幸運にも身の回りのめんどうは伴侶なり子ども達なりが一生懸命みてくれるとする。それは、とても感謝してもし足りないほどであろう。
彼(女)達は自分の為に働いてお金を稼ぎ、疲れたからだで帰宅した後に良くしてくれるのに対し、自分は何を彼(女)達にしてあげられるのだろうか?そう考えた時に、親しい人であればあるほど、自分のせいで苦労をかけているという罪悪感によって、いっそ逃げ出したくなってしまうというような心境は想像できないだろうか。
つまりこれは、id:laddertothemoon さんの言葉による、
# 2007年09月18日 id:laddertothemoon 一方的に受ける側という認識がある?ギブ&テイク(お互い様?)だと思えないとしんどいのかも。
というのが、まさに適切である。
「自分が存在しているだけ」で、誰かにとってかけがえのない存在であるという実感があれば、「ギブ&テイク」は成り立つ。いや、そこまで行かずとも、「自分の存在」が誰かの役に立つ時もあるだろうという漠然とした認識でさえ、成り立つかもしれない。
しかし、id:laddertothemoon さんが言うように、自分が『一方的に受ける側という認識』の場合。つまり、「自分の存在」は誰にとっても役に立たない、そして「一方的に恩を受ける人間」であるという認識だとするならば、それこそが罪悪感に苛む人を苦しめる原因となるのである。
これは、客観的意見により「いかにあなたの存在が誰かの役に立っている」のかを伝えたり、または、あなたが「本当にその人に感謝していることを実感」していても無意味なのである。その感謝していることの実感は、そのまま相手の実感にはなりえない、という非対称性があるからだ。
という訳で、前回の話で言わんとする「罪悪感に苛まれる人の苦しみ」というのは
# 2007年09月18日 id:winter-snow 逃げた時、その親しい人が探してくれるかどうかが、絆が強いか弱いかの話になるのかな
という話には繋がらない。
確かに、「相手の誠意を試す」ために相手との距離をおき*1、相手がいかに自分を大切に思っているかという踏絵を行うという状況もありえる。しかし、わざわざ相手の気持ちを測るということは、「自分は相手に与えている」からこそ「相手はどれ程与えてくれるのか」ということを測りたいのではなかろうか。そうでなければ、精神的未熟さによる「心配をかけたいが為」の行為だと思われる。
前回の話はそういうパターンではなく、「一方的な負い目」を感じるこその逃避であり、それを追ってわざわざ探し出してくれているなどということが分かると、「より一層負い目」を感じることになりかねないのである。
# 2007年09月18日 id:takopons 「ごめんなさい」と言わなければならない相手から逃げている罪悪感。 時間が経てばたつほど罪悪感は重く大きくなってくる。心は壊れ、人間関係も壊れてしまう。
というのも、先ほどまで話していた恩の話とは異なるが、「一方的な負い目」を感じるという点で共通する。
「一方的に受取っている」と感じるということは、心理的にかくも自分の根底に圧し掛かってくる問題なのである。
追記 1
# 2007年09月18日 hatayasan psychology, life その人の幸せを願うからこそ身を退く、という考え方なのだろうか。信じた相手に身を委ねようとするのと身を退くことを峻別するものは、「ギブ&テイク」の関係に戻れるかどうかによるのだろうか。
そういう場合もあるかもしれないですが、前回の話に限って、『その人の幸せを願うからこそ身を退く』というような、綺麗な話ではないです。あくまで、「相手から一方的に施しを受ける自分を許容できない」からこその逃避や葛藤などを論点にしています。