「田舎である事に劣等感」があることが大前提にあり、それを考慮できなければ「空気が読めない」となること

kmizusawaの日記 - 「読まない」のか「読めない」のか
 を読んで思ったのだが、この著者にとっては「田舎であること=悪い事」のような認識があるようだ。

そのオッサンが連れを相手に何を喋っているかというと「福岡市がいかに田舎か」ということを熱心に説いているのだった。しかもかなり大声で。
… 中略 …
しかもバスは西○の独占状態だ、それがいかん、みたいなことを大声で言う。裏に大人の事情があるようなことを大声で言う。

…あなたが今乗っている乗り物がまさにその○鉄バスなんですが。

kmizusawaの日記 - 「読まない」のか「読めない」のか

 そのオッサンの描写はこんな感じなのだが、「いかん」という表現を使っているところから、このオッサンのその他の表現にも「それと比較して都会は良い」と読み取れるニュアンスがあったのかもしれない。*1

でもなー、なんでそれを「自分以外は皆福岡市民」の「○鉄バスの中」で大声で言うかな。相槌の打ち方から推察するに、連れの人はかなり困っているようだった。

世の中「空気を読む」のが苦手で面倒なことに陥る人もいるが、こういうオッサンは「読めない」のか「読まない」のか。

kmizusawaの日記 - 「読まない」のか「読めない」のか

 引用元の著者の人は、この態度を元に「空気が読めない」といっているが、このオッサンと著者との間に「田舎と都会に関する優劣」の前提条件が共有されていると考えているところがおもしろい。
 個人的には、どちらかといえばこのオッサンは、空気が「読めない」というよりは、そのオッサンの連れや、周りの乗客に対する、「都会であることの優越感」を「読んだ」上で、「劣ると考える」部分を大声で振りまく事で、優越感を感じているのかもしれないと推測してしまう。

 また、もう一つのおもしろいと感じたところは

あえて「読まない」(「読む」必要がないと判断している)のだとすると、それはなぜか。なぜそれが通ると思っちゃうんだろう。

kmizusawaの日記 - 「読まない」のか「読めない」のか

 の中の、「通ると思っちゃうんだろう」という疑問である。
 例えば、「田舎が好きで、この場所がどれだけ田舎か」を力説する「空気を読まない」人がいたとしても、(たまたま乗客として居合わせた)周りの人間が「田舎は悪いところだ」という認識があれば、そんな事を言うのがダメだという考えなのだろう。

 個人的にはこのような乗客と乗り合わせたところで、「都会が好きなんだなぁ」ぐらいにしか思わないのだが、俺こそ「空気が読めない」人間なのかもな。

*1:完全な推測だが