罪悪感 - Res

前回の日記 はてなブックマーク数のブクマコメントで

# 2007年09月18日 id:yumizou 「そして、いつしかそれに耐えられなくなったとき、その親しい人からも逃げざるをえないのだ。」つらいだろうというのはわかるんだけど,親しい人から逃げるという選択を果たしてするのかな。

という言葉を見かけたが、私は逆に「親しい人だからこそ」逃げたくなるのだろうと思う。
想像してみて欲しい。
例えば、現在自分のからだが健康であるとして、将来自分のからだが不自由になり、寝たきりになるとする。しかし、幸運にも身の回りのめんどうは伴侶なり子ども達なりが一生懸命みてくれるとする。それは、とても感謝してもし足りないほどであろう。
彼(女)達は自分の為に働いてお金を稼ぎ、疲れたからだで帰宅した後に良くしてくれるのに対し、自分は何を彼(女)達にしてあげられるのだろうか?そう考えた時に、親しい人であればあるほど、自分のせいで苦労をかけているという罪悪感によって、いっそ逃げ出したくなってしまうというような心境は想像できないだろうか。

つまりこれは、id:laddertothemoon さんの言葉による、

# 2007年09月18日 id:laddertothemoon 一方的に受ける側という認識がある?ギブ&テイク(お互い様?)だと思えないとしんどいのかも。

というのが、まさに適切である。

「自分が存在しているだけ」で、誰かにとってかけがえのない存在であるという実感があれば、「ギブ&テイク」は成り立つ。いや、そこまで行かずとも、「自分の存在」が誰かの役に立つ時もあるだろうという漠然とした認識でさえ、成り立つかもしれない。
しかし、id:laddertothemoon さんが言うように、自分が『一方的に受ける側という認識』の場合。つまり、「自分の存在」は誰にとっても役に立たない、そして「一方的に恩を受ける人間」であるという認識だとするならば、それこそが罪悪感に苛む人を苦しめる原因となるのである。

これは、客観的意見により「いかにあなたの存在が誰かの役に立っている」のかを伝えたり、または、あなたが「本当にその人に感謝していることを実感」していても無意味なのである。その感謝していることの実感は、そのまま相手の実感にはなりえない、という非対称性があるからだ。

という訳で、前回の話で言わんとする「罪悪感に苛まれる人の苦しみ」というのは

# 2007年09月18日 id:winter-snow 逃げた時、その親しい人が探してくれるかどうかが、絆が強いか弱いかの話になるのかな

という話には繋がらない。
確かに、「相手の誠意を試す」ために相手との距離をおき*1、相手がいかに自分を大切に思っているかという踏絵を行うという状況もありえる。しかし、わざわざ相手の気持ちを測るということは、「自分は相手に与えている」からこそ「相手はどれ程与えてくれるのか」ということを測りたいのではなかろうか。そうでなければ、精神的未熟さによる「心配をかけたいが為」の行為だと思われる。

前回の話はそういうパターンではなく、「一方的な負い目」を感じるこその逃避であり、それを追ってわざわざ探し出してくれているなどということが分かると、「より一層負い目」を感じることになりかねないのである。

# 2007年09月18日 id:takopons 「ごめんなさい」と言わなければならない相手から逃げている罪悪感。 時間が経てばたつほど罪悪感は重く大きくなってくる。心は壊れ、人間関係も壊れてしまう。

というのも、先ほどまで話していた恩の話とは異なるが、「一方的な負い目」を感じるという点で共通する。

「一方的に受取っている」と感じるということは、心理的にかくも自分の根底に圧し掛かってくる問題なのである。

追記 1

# 2007年09月18日 hatayasan psychology, life その人の幸せを願うからこそ身を退く、という考え方なのだろうか。信じた相手に身を委ねようとするのと身を退くことを峻別するものは、「ギブ&テイク」の関係に戻れるかどうかによるのだろうか。

そういう場合もあるかもしれないですが、前回の話に限って、『その人の幸せを願うからこそ身を退く』というような、綺麗な話ではないです。あくまで、「相手から一方的に施しを受ける自分を許容できない」からこその逃避や葛藤などを論点にしています。

*1:物理的距離でも、心理的距離でもよい