公正さについて

公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また」というエントリを読んだ。
これは以前に、「私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また」に対するコメントとして、

# 2007年11月19日 suVene 『公平に、公正にものを考えようとするとき、できることは、さまざまな異なった立場にたつ自分を想像してみることだ』 それもあるけど“何を基準として公平・公正” とするのかということを考える事も大事だと思う。

はてなブックマーク - 私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また

という事を書いたのだが、その部分から連想されて書いたのだという前提で書く。

公平・公正の判断の基準なんて、考えたこともなかったな。
なぜなら、公平・公正を一人の個人が判断できると思わないから。
一人の個人が基準を決める、あるいは判断することは不可能だと思っていたから。

公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また

まず、「絶対的な基準」という意味でなら「一人の個人が基準を決める、あるいは判断することは不可能」というのは、当然過ぎる話であるので同意できる。公平・公正さなんてのは常に背景によって相対的に決まるものだし、個人によると千差万別すぎる。

ただ、この部分は同意できない。

公平とか公正とかいうのは、多角形の重心みたいなものじゃないかと思っている。どの頂点にも、決してそれは存在しない。多数の頂点間のバランスをとるためには、それらの頂点ではない場所を支えるしかない。
ということは、どの頂点から見ても、そこは遠い。

公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また

この、「多角形の頂点」というのが、各個人や勢力が考える「公正さの基準」だという前提だとして、「公平とか公正とかいうのは、多角形の重心」というところが納得できない。何故なら、ある一つの「多角形の頂点」を「公平・公正」とする場合もあるからだ。たまに見かける、中道というのを「極論の中間」という意味で使っているのと同じような意味で納得できない。
何に対する「公平・公正さ」の話をしているのかによって、話は全然異なってくるのだが、例えば

  • 100点満点中 80点 が合格点なので、それ未満は不合格とし、それ以上を合格とする

という基準(一つの頂点)があった場合に対して、

  • いや、40点を基準としないと公正さに欠ける

という主張(一つの頂点)があった場合、間を取って「60点が公正である」とはいえない。80点が妥当かもしれないし、40点が妥当かもしれないし、60点が妥当かもしれない。いずれにせよ、『どの頂点にも、決してそれは存在しない』とは言えないのだ。

そして、俺が言いたいのは 40点か 80点かという話はともかく、「この人は60点で合格にしよう。この人は80点で合格にしよう。この人は…」などという事が無いようにという意味において、『“何を基準として公平・公正”とするのかということを考える事も大事』という事を述べている。

最後に

真の公平・公正は、どの頂点からも遠くて、誰もが必ず多かれ少なかれ不満をもつような場所にあるはずだから。

公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また

という部分も、上述の「間を取れば中道」にはならないという意味で納得しかねるのだが、それ以前に「真の〜〜」や、「本当の〜〜」というのは、結論の出るわけの無い問いなので、あまり意味を成さない。

公平・公正 というのは、ある前提において明確な基準の元に決断されて、人種や出身などにおいて差別なく適応されるルールのことだと考える。

そのルール自体の基準をどこに置くのかというのは、難しい問題なのだろうけど、その意味において『公平・公正の判断の基準なんて、考えたこともなかった』ということは無いだろうと思う。